南静園を兵舎と誤認/第2次大戦時の連合軍
戦争遺跡文化講座
平良地区の戦争遺跡を解説する文化講座が11日、市歴史文化資料館であった。市教育委員会の森谷大介さんが確認された壕(ごう)などを紹介した。第2次大戦時に多くの空爆や機銃掃射を受けた宮古南静園は連合軍に軍関連の施設と誤認されていたと説明した。
宮古南静園は「十十空襲」(1945年10月10日)以降、職員が逃亡したため、以降は入所者のみで避難や自活を強いられた。翌年3月には日本軍によって園近くの避難壕から強制的に退去させられ、別の壕を移動せざるを得なかった。
森谷さんは、44年11月25日付の米太平洋艦隊司令長官による太平洋海域情報速報を紹介。南静園北方上空からの空撮写真の説明文で「宮古島の北東海岸。島尻の南東約1・5マイル。広大な兵舎と工場の可能性。建物の南西の角に高さのある煙突。各兵舎の南東端にある貯水槽に注意」とあり、実際には翌年3月から軍が使用していたが、それ以前に軍関連施設と誤認され、たびたび砲撃を受けていたと説明した。
南静園近くの海岸には入所者が避難した壕がいくつもあり、職員住宅の壁面には機銃掃射の痕が現在でも残っている。