13世紀後半の交易探る/シンポ「伝説の争乱・与那覇原軍」
中国福州と宮古八重山諸島
シンポジウム「伝説の争乱・与那覇原軍」が12日、市働く女性の家ゆいみなぁで開かれた。研究者3人が、これまでの研究の成果を発表。このうち、久貝弥嗣さんは、先行研究者の解釈を引用し「13世紀後半、中国の福州、台湾、宮古・八重山諸島、沖縄本島は交易範囲にあった。宮古・八重山諸島は沖縄本島より重要な位置を占めていたと考えられる」との見解を示した。市民ら約50人は興味津々に聞き入っていた。
3人は、2017年度おきなわ銀行ふるさと振興基金の助成を受け、「伝説の争乱・与那覇原軍ー宮古島の13世紀から15世紀にかけての防御的遺跡の消長に関する研究」をテーマに調査・研究に取り組んでいる。今後1年間の研究成果を報告書にまとめる。
今回のシンポは、伝説の争乱である与那覇原軍について、宮古島の遺跡に残された石積や、中国産陶磁器、宋銭などの考古学の視点からアプローチを行い、13世紀から14世紀の宮古島の社会情勢について考察した。
本村麻里衣さんは「宮古島の石積で囲まれた遺跡を考える~現地調査報告と課題」、久貝弥嗣さんは「宮古島市内グスク時代の中国産陶磁器」、久貝春陽さんは「川満地域の遺跡にみる与那覇原軍」と題してそれぞれ発表した。
久貝弥嗣さんによると、先行研究者の吉岡康暢氏は「宮古・八重山諸島の華南通商の背景には、1276年に南宋が滅亡し、元のクビライが1277年に泉州・広州などの5市舶司を設置するなどの海外貿易振興策が影響を与えているとし、宮古・八重山諸島の華南通商における元代の中国側の拠点港は福州・ときには泉州としている」と提唱。
また先行研究の森本朝子氏は「13世紀後半に、福州および泉州を拠点港とした中国南部から台湾、東南アジアにかけての交易圏がみてとれ、宮古・八重山諸島もその交易圏の一端に含まれていたと考える」としている。
シンポに参加した宮古郷土史研究会の下地和宏会長は、『元史(げんし)』という古史料にある「1317年に婆羅公之民(ぼらこうのたみ))が中国の永嘉県(えいかけん)に漂流した」との記事に注目。「13世紀後半から宮古・八重山諸島が福州・泉州と交易していたことが明らかになってきた。漂流した記事は生きてくるかも」と推測した。
記事の「婆羅」は現在の宮古島市城辺保良と考えられている。