非戦、平和訴える銃弾跡/南静園の職員宿舎塀
コロナ禍 学習機会減る/きょう75年目終戦記念日
75回目となる終戦記念日は、新型コロナウイルスによる不安が世界中に広がる中で迎えた。感染拡大が続く宮古も、平和関連の学習会などのイベント開催は難しい状況で、戦争の悲惨さや平和の大切さを学ぶ機会が大幅に減った。そうした中、島内各地に点在する戦争の爪痕は、例年通り見る者に恒久平和を訴えかけている。国立療養所宮古南静園の施設内にも米軍機の空襲による銃弾跡が戦争遺跡として今も残っており、改めて戦争の怖さと平和の尊さを感じさせてくれている。
同園には、ハンセン病歴史資料館があり、ハンセン病患者の長年にわたる差別と苦悩の歴史のほか、戦争でも多くの入所者の命が奪われた記録などが展示されている。
しかし、現在は新型コロナの影響で休館となっており、ハンセン病に対する正しい理解と反戦平和の発信ができていない。
それでも、同園唯一の戦争遺跡である職員宿舎塀に残る銃弾跡は、見る者に当時の恐怖をよみがえらせる。
1944年の10月10日、米軍による宮古島への空襲で、南静園では作業船「南静丸」が海上で機銃掃射を受ける被害が発生。
翌年の45年3月以降は、連日のように空襲が繰り返されて宮古島全域が大きな被害を受け、南静園の施設も壊滅状態となったが、職員宿舎塀は現在も銃弾跡と共に残っている。
この空襲を生き延びた宮古退所者の会の上里栄さん(85)は「この銃弾跡は45年3月の空襲によるもの。当時は戦闘機が何度も飛来して焼夷(しょうい)弾を落としながら攻撃したので南静園の施設は壊滅状態となった」と振り返った。
同資料館でボランティアガイドを務める砂川洋子さんは「当時は入所者が約300人ほどいて、空爆後、市街地に避難した人以外は、行く場所がなく約250人ほどが園の近くの壕(ごう)で長期間避難し、そのうち110人が極度の栄養失調やマラリアなどで亡くなった」と話し、戦争の怖さを訴えた。
新型コロナ感染拡大の影響で園内は現在、関係者以外立ち入り禁止となっている。
戦後、75回目の夏を迎えた銃弾跡が残る職員宿舎塀の周辺は静けさの中で、野鳥のさえずりと、木々を揺らす風の音だけが響いている。