明和の大津波から250年
資料や写真など展示/市役所
「大津波から250年~宮古を襲った津波被害~」(主催・市教育委員会生涯学習振興課)のパネル展示会が19日、市役所1階エントランスホールで開催された。30日まで。1771(明和8)年に起きた明和の大津波によって運ばれた岩石の写真や津波に関する資料、津波に覆われた友利元島遺跡から出土した土器や陶器などが展示されている。
展示会では宮古島南海岸に残る明和の大津波の痕跡として城辺友利の敷石遺構や下地与那覇にある大津波の石碑、下地島の巨岩石帯岩などの写真や大津波を伝承してきた上比屋山の津波伝説、ヨナタマ伝説と通り池の由来などがパネルで紹介されている。
明和の大津波とは1771年4月24日(旧暦3月10日)午前8時ごろ、八重山・宮古諸島を襲った津波で日本近海における歴史上最大級の津波被害をもたらせたといわれている。
大津波は石垣島白保崎の南南東約40㌔(北緯24・0度、東経124・3度と推定される)の海底が震源地とされるマグニチュード7・4の巨大地震によって発生した。
多良間島を含む宮古諸島では南海岸線の宮国、新里、砂川、友利地域などで被害が大きく宮古全域で死亡者2548人、八重山を含めた先島全体では約1万2000人が死亡したという。
琉球王国の歴史書「球陽」によると、高さ三丈五尺(約11・1㍍)、二丈五尺(約8・2㍍)、十二、十三丈(約㍍)の大きな津波が3回にわたって押し寄せ、宮古12村を直撃し甚大な被害を与えたことに加え、当事者たちが直面した被害が詳しく記録されている。
展示会に訪れた代の女性は「島外出身なので明和大津波のことは知らなかった。宮古でも大きな被害があったことに驚いている。東日本大震災の時は東京にいたがかなり揺れた。災害はいつ起こるか分からないので、防災意識を常に持って生活したい」と話した。