言葉は文化、自分を知るきっかけに
一粒万倍 ふるさとを語る
幼いころの思い出は?
高橋 自然が遊び場、学ぶことが多かった。特に渡口の浜が最大の癒やしの場だった。夕方入り江に入ってくる潮の音がとても好きだった。そう、子どもがいっぱいいた。同じ学年で40人の4クラスあり、遊ぶ友だちに事欠かなかった。人と自然と祭りが自分の中に染み込んでいって大きくなった。
下地 久松は平良から少し離れているというだけで、独自の文化があったような気がする。言葉なり、暮らしなり、そうした久松にどっぷり浸かって、大海を知らずに育ったというか(笑)。それでも方言が使えるようになったのは高校を卒業してから。方言を使ってはいけないという教育があった。その名残で親も意識して子どもの前では標準語を使っていた時代。でも、親たちが話しているのを聞いて育ったから今話せるのかもしれない。
砂川 方言が駄目ということではなかった。私は両親が共働きで、意外と同世代が少なくて、学校から帰ると隣のばあちゃん家で遊んでいた。学校も遠くてずいぶん歩いた。途中から友だちもいなくなって1人で暑い中を木陰を探しながら歩いていた。
宮古で生まれたことに誇れることは?
下地 久松に限っていえば、狭い地域だけにみんな近い。そんな人間関係をある時はうっとしいと思ったこともあったが、今思えば、それが生きるということかなと。宮古のことわざにもあるように、自分のカマツ(頬)がゆがむまでも隣近所とゆがんではいけないよ訓えたくれた先祖のことをありがたいと思う。人間関係を良好にということは、都会に出て無関心な人間関係を見るにつけ大事なことだったんだと感じる。
高橋 それはある。今の学生はコミュニケーションの取り方がへたくそ。島で育った私たちには考えられない。宮古は隣同士も垣根が低いがゆえに、何でも言える、また許せるという人間関係をつくれたということが今役立っている。島を離れて32年、離れてみて島の良さが分かる。島の輪郭というか、自然や文化がくっきりと見える。離れる時間が長いほど、島への気持ちって凝縮されていく。
砂川 宮古の人はチャーミングな人が多い。飛行機の中でも知らないのに隣どおし、話し掛けるとか、スーパーに行ってもよく話し掛けられる。都会ではありえないこと。そんなことが普通にできることが島ならではの良さかなと思う。
宮古の良さ、離れてみて感じることは?
下地 実は先日、友人に「久松の色は何色?」って聞かれたことがあり、とても悩んだ。結果出た答えがグレーだった。でも自分の中で、どうしてすっきりした色が出てこないんだろうと思ったときに、結論的には色が二つに分かれる気がした。幼少のころの思い出は鮮やかだが、大人になって島を離れ、時々帰ると、古里がどんどん変貌している。護岸工事が進んでいたり、子どもの声が聞こえなかったり、親が年取っていたりと、まともに向き合えない自分がいる。それは、ふるさとへの申し訳ないという気持ちが憂いの色となってしまう。離れるということは、これでいいのかと思わせるかしゃくの念もぬぐえない。複雑。
高橋 思い出は鮮やかで色あせないが、帰ると、あんなにゆるゆると流れていた入江が一直線になっている。それは、護岸工事をしたから。潮の流れが変わってしまったために、逆に失われてしまったものがある。人間は常に進化し発展しようと日々努力しているわけで、その気持ちは決して止められるものでもないが、結果として、ああ、思い出の場所がまた一つ消えちゃったという寂しさみたいなものがある。
砂川 私は15歳(中3)で、沖縄本島に移り住んだために思い出がそこで止まっている。勇さんや尚子さんとはまた違う思いがあるが、離れてみたからこそ、自分の生まれ育ったところが素敵なところだったと思えるのは当たり前かな。
ふるさとはどうあってほしいと思うか?
高橋 一概にどうあってとは言えないが、島を愛する人たちが、そこに暮らす人たちが島を大切に思う限り、根っこの部分とかは、変わらないのじゃないか。時代とともに、屋根瓦がコンクリートになり、砂利道がアスファルトになって行くというのは時代の流れで、かたくなに昔のものを守っていれば良いと思っていないにしても…。やっぱり、形がいかように変わろうとも自分のふるさとを思う気持ちが大事なんじゃないかな。
私は執着に近いほど、ふるさとが大好き。やっぱり、生まれた所というのはその人にとっては、たった一つの場所。母親に育てられるように、島に育てられたという感覚があるので。だから、こうあってほしいというよりは、大事に思うこと、それがふるさとではないでしょうか。
下地 護岸整備とか、そういう人工的にやってしまったことは、極端な話、またお金をかけて崩すとか、木を植え直すとか、原風景を取り戻すことも可能かもしれないが、そうではない例えば言葉(方言)だとか、方言でしか表現できないものがあるわけだが、そうしたものが、消えかかっているというのが気になる。例えば「アイヤガ、アイヤ」と、驚きながらも感心しているような表現など。そうしたものが消滅するということは、どんなにお金をかけても取り戻せない。特に若い人たちは話せなくなっているし、それが時代の流れと割り切れるかどうか。ぼくはやっぱり寂しい。
砂川 私の世代はあまりしゃべれない。使うとしたら単語単語をつなぎあわせるくらい?介護の現場でよくあるのが、断片的にしか使えなくて丁寧語が分からない。失礼なことを言っているはずなのに、おじいおばあは大きな心でそれをそのまま受け入れてくれるという光景がよくあって、心が痛む。言葉は文化だから、やはり自分を知る意味でも大事にしていきたい。
皆さんの今年の抱負は?
下地 おかげさまで、今年は芸能生活10年になる。がむしゃらに、ひたすらに創作をし続けてきた10年だったが、また新しい世界、可能性を自分なりにさぐっていきたい。標準語でも歌ったりしているが、島の言葉にずっと魅せられっぱなしなので、まだまだ会得出来ていないことがあると思うし、これからどんなことができるのか、10年過ぎた自分がまた楽しみ。
砂川 おかげさまで、『一粒の種』を歌い始めて4年になる。そして、歌を届けに行く「スマイル シード プロジェクト」を始めてから3年になる。この歌を生で聴きたいという人たちが増えてきて、そして聴いた人たちがまた全国に広げたいという方たちの輪が広がっていて、昨年は、手弁当でどんどんつながっていくという1年だった。訪問先も500カ所になる。続けてこれたのは、いろんな方たちのおかげだと思うので、今年も大事に種まきをしていきたい。
高橋 詩は最初、メールマガジン「くまから かまから」に掲載されたことがきっかけだったが、私は看護師という仕事で、お二人とは立場が違う。私は白衣を着て地に足を着けて、人として患者さんとしっかり向き合っていきたい。そして、いろんな思いをまた、くまかまで伝えていけたらと思っている。
司会 皆さんが世に送り出した「一粒の種」は、まさに「命」「ふるさと」を象徴するものだと思う。高橋さんの詩「私が一粒の種をまこう、あなたの生きた命の種を」。そうして命は綿々とつながっていく。まかれた種はそこで芽を出し育っていく。私たちは、落ちた場所を選ぶことはできない、それがふるさと。その場所でしっかり根付く者もおれば、新たな場所を目指す者もいる。それでも宮古には「ンマリャーピトスマ(生まれは一島)スダッツア(育つのは)ムムスマ(百島)」ということわざがある。この大らかな風土が私たちの生まれ島。どうぞこれからも、ふるさとを誇りにご活躍ください。
言葉は文化、自分を知るきっかけに
自然から学び島で育てられた/高橋
島の言葉に魅せられっぱなし/下地
言葉は自分を知る上で大事/砂川