きょう本土復帰38年/5・15復帰特集
1972(昭和47)年に米国から日本政府に施政権が返還された沖縄県はきょう15日、38回目の復帰記念日を迎える。さまざまな活動を通して復帰を待ちわびた人たち。当時、復帰をどう捉えたか話を聞いた。
情熱傾けた復帰運動/下地 肇さん(73歳)
「かたき土をやぶりて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ」。5・15が近づくと、ラジオから当時よく歌った「沖縄を返せ」が流れてくる。「行進のたびに何度も歌い気持ちを一つにした」。今でも時々口ずさむという。
復帰運動には家族ぐるみで参加した。妻と当時小一だった息子がはちまきを巻いて参加している写真を大切に保管している。「老若男女が祖国復帰を願っていた」と振り返る。
当時、城辺町役場の職員で農民協の役員だった。「生活もそうだが問題ばかりが多かった。働いても働いても現実が変わらないなら、復帰運動で変えていこうという気構えがあった」
運動は教職員や労組などが中心だったが、サトウキビ代金アップを訴える農民協も加わり除々に拡大していった。行進の後、大会を開こうとしたが、参加者が多く場所を急きょ変更したことを覚えている。行進は1日がかり。帰りのバスの中でも復帰について熱く語り合った。
屋良朝苗氏が米軍基地などのさまざまな問題を抱えての復帰だと述べた「復帰宣言」は、東京の出稼ぎ地で聞いた。「ついに復帰したのか。パスポート無しで宮古に帰れるのか」。しみじみと思ったという。
復帰前は経済的には貧しかったが、地域にはさまざな行事があり結束や団結が図られていた。「経済的には豊かになったが、ユイマール(相互扶助)が無くなってしまうなど昔の豊かな精神が失われたような気がする」
駅伝で「復帰」を実感/上地 伸栄さん(59歳)
1967年12月、宮古農林高校駅伝部は京都・西京極陸上競技場の土を踏んだ。第18回全国高校駅伝大会。同校は9回大会の沖縄選抜以来、9年ぶりに沖縄から出場して全国の強豪と競った。本土復帰の5年前だった。
優勝校は中京。前回に続く2大会連続制覇に競技場は沸いた。その中京に遅れること17分、宮古農林は最後尾でゴールした。日本の高校ではないため扱いはオープン参加。順位は付かなかった。
1区10㌔を走り終えた上地さんらは競技場の雰囲気に驚いた。最下位でゴールした宮農に対する歓声や拍手が鳴りやまない。5年後に復帰する沖縄への祝福がこもっていた。その拍手は、優勝した中京のゴール時に勝っていたといわれる。
「あの時の感動は忘れられない。まだ高校生だったが、本土復帰がどういうものかを実感できた」と感慨深げに振り返る。「政治より先に、スポーツで祖国復帰を」-。上地さんが今も大切に持ち歩く関係書物に記されている言葉だ。
大学では偏見に苦しんだ。寮生に「英語話せるんだろう?」などとひやかされ、悔しい思いをした。「『俺もお前たちと同じ日本人なんだ』と心の中で言い続けた」と語る。
スポーツを通して日本ではない「沖縄」を実感してきた。だからこそ72年の本土復帰を喜ぶ。「生活が豊かになり、スポーツでは子どもたちが本土の強豪に追い付け、追い越せと頑張っている。自由な時代、幸せな時代を生きていることを忘れないでほしい」と話した。
暮らし、格段に向上/中尾 英筰さん(72歳)
復帰前の1956年、東京の大学(早稲田)に進学した。東京と宮古で復帰運動にかかわり、宮古で復帰を迎えた。「復帰後、国の下で道路や港湾など社会資本の整備が進んだ。現在の発展は、復帰なくして語れない。復帰して良かったと思っている」と38年を振り返る。
27歳のころ、アメリカを1カ月間旅行する機会があった。当地で目にしたのは、沖縄になかったスーパーやファストフードの店。広い道路には、多くの車が走っていた。
宮古はアスファルト舗装がほとんどなく、車もかなり少ない時代。店は小規模雑貨店(マッチャ)が多かった。「アメリカと沖縄の生活文化レベルの格差にショックを受けた」と話す。
当時の為替レートは1㌦=360円。1000㌦で、10坪の住宅が建ったという。サラリーマンの給料が100㌦~150㌦。現在のレート(1㌦=93円)で換算すると、住宅10坪が9万3000円、給料が9300円~1万4000円になる。
「復帰前と比べ円は強くなった。為替は、国の経済力を測る一つの指標になる。日本は高度経済成長を成し遂げ、生活文化レベルもアメリカと遜色のないところまできた。復帰していなかったら、沖縄は大変だった」と生活向上の背景を分析する。
鳩山政権に対しては、「社会資本がまだ脆弱な沖縄では『コンクリート』の部分も大事。振興策を10年程度延長してほしい」と要望する。