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社会・全般
宮古の新聞の興亡を回顧する
宮古の新聞の興亡を回顧する
仲宗根 將二(なかそね・まさじ)
1、市民会館と博物館
宮古は戦前この方、他地域にくらべて政争の激しい地域と言われがちである。時には、宮古の人は一般に議論好きだとも言われる。ことの当否はともかく、1972(昭和47)年5月15日「祖国復帰」の記念事業で、平良市は「市民会館」を建設し、石垣市は「博物館」を建設した。このときも宮古は集会=政治を反映させ、八重山は歴史を考える場を建設したのであろうと、その対照的な記念事業のあり方が話題になったものである。宮古新聞界のかつての興亡を回顧するとき、いっそうその感を深くする。
テレビはおろかラジオもいまだ登場せず、言論機関といえば二日おき三日おきに発行される新聞だけのころから戦後のある時期まで、確かに宮古の新聞は政治に限らず、つねにさまざまな分野の激しい抗争を伝えている。時には、新聞自体が自らその渦中にあってどちらかの立場で激しい抗争を演じていたと言っても過言ではなさそうである。しかし今はその議論が一見一党派の主張のようにみえても、究極において、宮古の民衆の幸せ、発展を求めてのものならば歓迎こそすれ、いちがいに否定する必要はなかろうとも考えている。
2、「開化党」と「頑固党」
沖縄県における新聞の創刊は他府県にくらべてかなり遅く、1893(明治26)年9月15日、『琉球新報』からである。琉球王国最後の国王尚泰(侯爵)の4男・尚順(のち男爵・貴族院議員)を中心に、大田朝敷、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和ら、代の若ものらによる創刊である。いずれも尚旧王家を取りまく首里の旧支配層の子弟で、早くに東京で学んだ、当時最高の知識人たちであった。
廃藩置県後わずかに十余年、旧支配層のなかには王国以来の伝統的な中国との関係をつづけようとする、いわゆる「頑固党」と、新時代に順応して新しい沖縄県の「進歩発達を促」そうとする「開化党」の両派に分かれ反目しあっていた。新進の知識を身につけた東京帰りの若ものらは開化党の青年派とよばれていた。紙面づくりは「国民的同化」を全面に押し出し、置県後「寄留商人など外来者の手に移った政治・経済など、沖縄社会の各面の支配権を取り戻す」ことに力をそそいでいた。
八重山での新聞の始まりは1917(大正6)年4月15日、東京出身の松下晩翠の創刊した『先島新聞』(週刊)である。1904(明治37)~05年の日露戦争直後に来県、「教育幻灯で沖縄各地を一巡し、忠君愛国日本を鼓吹して八重山まで」来たところ、旧友の安東八重山島司の薦めで新聞を創刊した(喜舎場英珣)という。「その論調は是々非々主義、自由奔放、松下の国粋主義的精神が横溢している向きが強い」(三木健)と評されている。
3、立津春方と盛島明長
宮古で初めて新聞が登場するのは断片的な各種資料からではあるが、一応1915(大正4)年、慶世村恒任の『宮古朝日新聞』と、垣花恒栄の『宮古公論』のようである。しかし、謄写刷りであったというていどで、現物は確認できず、詳細は分かっていない。それどころかわずか2年後の1917年10月には、川平朝建ら宮古の若ものらは創刊間もない先島新聞社に、宮古には新聞がないので「先島」の名にふさわしく、ぜひ宮古附録号を発行してもらいたい、と手紙を送り、同年12月実現させている。
宮古の新聞が比較的見えてくるのは、1920(大正9)年5月、初の衆議院議員選挙で、立津春方候補を推す『宮古新報』と、盛島明長候補を推す『宮古時報』の創刊からである。演説会では個人の誹謗、中傷は当然のこととして、立津側は盛島候補を「ヤブ医者!」、盛島側は立津候補を「クソ坊主!」などと攻撃したという(吉村玄得『盛島明長伝』1965年)。紙面でもそのような人身攻撃がなされていたのであろうか。歴史家の稲村賢敷は後年、「新聞といえば個人の私行をあばくものとして敬遠されたものであった」と記している(『宮古島庶民史』1957年)。
以来宮古では20種近い新聞が創刊されているが、長くて数年、大方1~2年で休(廃)刊をくり返している。つねにある種の政治的潮流に依拠し、もしくはそれに左右されるために読者の新聞離れがおき、短命に終わったのであろう。たとえば一例だが、昭和初期、『宮古毎日新聞』(前里秀栄)→『宮古日報』(亀川恵信)→『宮古朝日新聞』(上里忠勝)というぐあいに変遷している。社主が変わるごとに改題して、その主張まで変遷していくのである。さきの大戦では、戦時言論統制による新聞統合で一時改題することはあってもなお戦後まで命脈を保ち得たのは、1920年月、『宮古時報』を引きついで『宮古民友新聞』と改題した瀬名波進の一紙のみである。この風潮は戦後の一時期まで引きずられている。
4、戦後新聞の出発
1945(昭和20)年3月~6月の「沖縄戦」では、宮古は地上戦こそなかったものの、米英軍の連日の猛爆で平良のまちはもとより集落のほとんどが焼失した。衣・食・住はじめすべてに事欠き、飢えとマラリアが猖獗(しょうけつ)するなか、新聞が再開するのは同年9月1日『宮古朝日新聞』(『宮古民友新聞』改題)である。しかし再開したとは言っても、当初は野原越の軍司令部内での編集・印刷・発行で、事実上軍の管理下にあって軍に関する情報中心であり、地ダネは何一つない紙面である。純然たる民間紙は同年12月1日創刊の『みやこ新報』からと言えよう。社主は新城松雄、編集は山内朝保と平良好児らである。一日おきに発行されている。
以下十余種の新聞が興亡をくり返している。
みやこ新報=先島時報を統合→宮古朝日新聞(下地淳一)、宮古公論(宮古民主党)→宮古時事新報(富永岩雄・富永裕夫)→宮古新報(座喜味弘二)、宮古労農新聞(労農協議会)→宮古大衆新報(伊志嶺朝茂)、宮古教育(宮古教育会)→教育時報(宮古教職員会)、宮古婦人新聞(下地徹)、みやこ時報(平良好児)→宮古新報(与儀達敏)→南海タイムス(盛島明秀)、宮古経済時報(赤嶺民夫)、ニュース速報(本村隆俊・平良恵仁)など、以上は1952(昭和27)年4月「琉球政府」創立以前の概要である。
それ以後につづくものでは、宮古毎日新聞(真栄城徳松)、南沖縄(平良好児)、夕刊協同(本永朝亮)、宮古新聞(宮国泰良)などで、1972(昭和47)年5月以降に創刊されたのは『日刊宮古』(平良重信)のみである。一、二の例外を除いて、ほとんど政治家が関わっており、まるで政治活動の一環として新聞が発行されていたかのような感を抱かせている。
5、新米記者
宮古毎日新聞社に入社したのは1957年10月1日であった。22歳9月である。給与は月額2500B円(為替レート=1ドル・120B円・360円)、翌月から毎月100B円ずつ昇給し、半年後3000B円、さらに半年後の1958年9月、ドル切り替えで25ドルによみかえられた。その翌10月入社した砂川玄徳君(本年7月20日永眠=追悼)が初月給20ドルで、前の外人商社ではその3倍の給与だったのにと、ボヤイていたのを思い出す。
入社時の社の陣容は社長・真栄城徳松、編集局長・平良好児、同次長・瀬名波栄、総務局長・山本正憲、営業局長・新城朝康、工場長・真栄城徳昭(瀬名波さん以外はいずれも故人)らであった。入社初日の午後には早くも名刺も出来ており、次長に伴われて、市街地所在の各官公庁はじめ主要企業の出先機関に挨拶まわりである。琉球海運、琉球石油、沖縄汽船、郵便局、警察署、教育長事務所、地方庁、市役所、保健所、琉米文化会館、裁判所、沖縄食糧、琉球銀行…など、大方マクラム通りに面しており、すべて徒歩である。帰社したときはすっかりくたびれてしまい、椅子に掛けているのがやっとというありさま。ところが次長は上着もワイシャツもズボンもぬぎ、丸首シャツとステテコ姿でザラ紙に記事を書いておられる。新米記者を各機関の長に紹介ついでに、世間話をしているとだけ思っていたのに、いくつもの取材をしておられたのだ。
さらにその日の夕方、次長からは校正の要領を教わった。翌日からはさっそく分担して赤鉛筆による校正である。今と違ってわずかにウラオモテ2ページにしか過ぎないのに、誤植(ミスプリント)が出たらどうしようと気をもむばかりで、肩のこること肩のこること…。翌日からは一人早朝から取材に歩く。正午過ぎようやく社にたどりつき記事(ほとんど雑報)を書き、3~4時ごろ昼食をとって、しばらくすると校正が出る。
取材の要領や記事の書き方などは教わらなかったが、校正のさい己の修飾語の多い記事が、編集局長によってみごとに手直しされ掲載されているのをみて、溜息をついたものだ。
市街地は文字通り歩いての取材である。那覇から船が入港すれば出社前に平良港に出向き、乗客の下船より早く水上派出所の警官とともに事務室に入って、時にコーヒーのごちそうにあずかりながら、乗客名簿に目を通し、記事になりそうな著名人をメモする。郊外や郡部の取材はそこへ出張する公用車に便乗するか、バス利用がつねであった。幸い入社早々挨拶まわりをしたおかげであろう、先方がおぼえていてくれて声をかけてくれたりする。改めて人間関係の大切さを実感したものである。
琉米文化会館の山内朝保館長(のち「宮古毎日」社長~会長)からは、新聞記者はまず人を知ること、取材は歩いてすること、若いうちは絶対に電話で取材してはいけないなどと、厳しく言われたものだ。瀬名波次長からは先輩や上司に同行するさいはつねに左斜め後に一歩下がって歩くように…と、戒められたものである。
日ごろはこのように濃密な人間関係の中にいたのだが、ひとたび政治の季節ともなると、地域社会の動向を反映してか、社内は目にみえて口数少なくなる。日ごろの「公平公正な報道」はどこへ行ったのか、熱い紙面づくりの日々のみつづく…。
6、さらに地域に根ざす…
宮古の新聞が政治の季節に左右されなくなったのはいつごろからであろうか。それはそれで大いに歓迎されてよいのだが、反面ジャーナリズム本来の主張がなくなり、おとなしくおさまっている感がしないでもない。例えば小さいことだが、市井のさまざまな声を反映した「10円玉コーナー」を活かしきれないのはまったくもったいない。また暑熱厳しい亜熱帯圏の宮古で、電線地中化と並木が両立しないのはなぜなのか、巷間広く話題になっているようだが、紙面には現れてこない。
かつてウラ・オモテ2ページの小紙面のころでさえ、毎日「社説」を掲げていたのである。新聞によっては社説ばかりか、コラムや随筆欄まで毎日常設していたことを想起すればなおさらであろう。
現在の地元2紙は、大正期に始まる宮古の新聞の歴史上、1、2位を占める長命の歴史を重ねている。読者はじめ宮古外郷友のさまざまな階層、団体、サークル等にも働きかけて企画をねり、さらに地域に根ざす充実した紙面づくりを期待するものである。
(宮古郷土史研究会)