盛島明長氏の銅像移転へ/実行委を設置
旧宮古神社から宮高に/宮中(現宮高)創設など業績大
宮古中学校(現宮古高校)創設や宮古高等女学校の県立への移管、宮古島測候所設立、池間島灯台設置など、島の興隆に大きく貢献し、政界でも大きな業績を残した下地地区出身の故盛島明長。その業績と遺徳を顕彰する盛島胸像が旧宮古神社の境内に建立されている。「南秀同窓会・盛島明長氏『銅像移転建立』実行委員会」の設立総会が17日、宮古高校で開かれ、顧問に下地敏彦市長、会長に下地常之さん(前南秀同窓会長)が就任した。
下地会長は島内外に向け「目標の協賛金200万円」の協力を呼び掛けた。協賛金は個人1000円(一口)、法人1万円(同)。銅像は宮古高校敷地内に移転建立し、11月中旬に除幕式を行う予定。
1965(昭和40)年、下地字洲鎌に「盛島明長氏生誕之地」顕彰碑を建立。同年、地方庁前広場に「盛島明長氏胸像」を建立したが、その後諸事情から当時の宮古神社の境内に移転建立された。
同委員会では「平成22年に新たに建設された宮古神社が旧市民会館跡に造営移転したため、盛島氏の記念像は今も旧宮古神社跡地に残されたまま、忘れ去られた碑となっているのは誠に忍びない」と指摘した。その上で「そのため、記念像をふさわしい場所に移転建立し、郷土の誇るべき先達である盛島氏を鑑として、若者の人材育成や島の繁栄、未来づくりにつなげたい」と決意を新たにする。
盛島明長(もりしま・めいちょう) 1880(明治13年)12月19日下地間切洲鎌村に生まれる。02年沖縄県師範学校卒業後、4月から宮古高等小学校訓導を2年勤務。04年4月長崎医学専門学校入学、08年3月同校卒。09年1月盛島医院を開業(旧友利医院)。11年宮古郡医師会長。17(大正6)年5月県議選に初当選。以来4期務める。その間に2期議長(宮古出身では初めて)。36(昭和11)年、衆議院議員に初当選(宮古出身者では初の国会議員2期連続当選)、41(同16)年3月24日病疫62歳。27日に宮古郡民葬を執り行う。
主な業績
下地に製糖工場誘致▽平良区裁判所の復活▽平良町立女子実業補修学校設立、織子の養成と宮古上布の生産振興を図る▽宮古郡水産会を誕生させる▽宮古中学校創設▽1936(昭和11)年に宮古郡町村組合立宮古高等女学校設立、40(同15)年に県立移管。