宮古最大規模の壕跡発見/市教委
駒部隊の司令部壕か
城辺長間 224㍍通路、左右に18部屋
沖縄戦時に宮古島に駐屯していた日本軍が構築したとみられる壕跡が、市教育委員会によって確認されたことが8日までに分かった。場所は城辺長間の更竹丘陵地で、城辺の一部地区の防衛を行っていた独立混成第60旅団(通称・駒部隊)の司令部壕と考えられている。ほとんどが泥岩(クチャ)層を掘った細長い通路で、総延長は224㍍に及び宮古では最大規模。通路の左右には約10平方㍍の脇部屋が18あり、倉庫や小部屋として利用された可能性が高い。
壕跡は2012年に、市教委が長間陣地壕群の発掘調査時の聞き取り調査で発見。県立埋蔵文化財センターがこのほど発刊した「沖縄県の戦争遺跡-平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書-」で、規模や形状などが明らかになった。
それによると、壕跡には三つの壕口が確認されているが、土砂で埋まった状態の壕口がもう1カ所あるとみられることから、計四つの壕口が連結した構造を形成している。
確認できる三つの壕口を連結する通路は断面の形態が馬蹄形(∩の形)で、幅約1・5㍍、高さ約1・5~1・8㍍。人一人が通れる程度となっている。
報告書では名称を「西更竹司令部壕跡」とし、特徴として約10平方㍍の面積の脇部屋が左右に数多く設けられていることを挙げている。
この脇部屋は、天井までの高さが約2・2~3・0㍍と通路部分と比べ高くなっており、倉庫や小部屋として利用された可能性があるとしている。
脇部屋には、薬瓶と思われる瓶類が数点散乱している箇所や、壁にはランプを吊すためと考えられるくぎなどが打ち込まれている箇所が複数みられる。
また、壕を入った途中には、約2平方㍍の複数の彫り込みが確認されている。通路は1人が通れる程度となっていることから、道を譲る時の一時的な待機所としての機能が想定されるとしている。
壕跡は一部に、くるぶしまで漬かる水が溜まっており、足元は悪いが崩れている箇所は少なく「良好な状態で残っている」(市教委)。
独立混成第60旅団は、1944年8月10日に旧満州牡丹江で編成された。同年9月23日に釜山港を出港し、10月30日に宮古島に上陸した。通称「駒部隊」と呼ばれ、司令部を西城小学校に置いていた。
報告書では、「その規模などや位置的な関係、聞き取り調査の成果を踏まえると、独立混成第60旅団の司令部壕であった可能性は非常に高い」としている。