悲惨な戦争、忘れない/仲宗根さんが戦後70年語る
歴史と文化講座始まる/市立図書館
宮古島市立図書館の「郷土の歴史と文化」講座が17日、開講した。初回は宮古郷土史研究会の仲宗根將二さんが戦後70年をテーマとする講話で戦争の悲惨さと愚かさを語った。自身の疎開体験を含め、飢えとマラリアに苦しめられた住民生活に触れ、「戦場の人は命懸けだった。でも、送り出した人もみんな同じように命懸けだった。それが戦争というもの。あの戦争を忘れてはならない」と話し、すべてを巻き込む戦争のむごさを語り継いだ。
初回講座の会場となった北分館の2階は満席の状態に。戦後70年を迎えるに当たり、市民の関心の高さをうかがわせた。
「戦後70年・戦史にみる宮古」と題して講演した仲宗根さんは戦時下の住民生活や疎開、飢えとマラリアなどについて語った。
疎開については学童、縁故、一般集団があったと報告した。一般・縁故で台湾に約8000人、九州に約600人が疎開した。学童の疎開もあった。仲宗根さんは「安全地帯へ疎開させたというより、戦争の役に立たない」という意味で人減らしが目的だったとする見方を示した。
自身、疎開を経験したことに触れ、「九州の冬はとても寒かった。手の甲や足の甲は霜焼けをして出血していた。洗面のたびに顔も痛かった。たいていの子供がそんな状態だった」と話した。ホームシックに陥る子供、食料が不足していたことも挙げた。
1944年10月10日に行われた「10・10空襲」の衝撃も語った。宮古では、午前と午後の2回、主として漲水(平良)港と3飛行場に爆撃が繰り返された歴史を示した。45年1月から空襲は頻繁になり、3月には連日の空襲が行われ、平良市街地や集落の大方が焦土と化した事実を語った。
「飢えとマラリアのため多くの命が失われた」という戦史の説明には多くの時間を割いた。当時の日本に制海・制空権はなく、米英軍に完全に掌握されていたとし、「海・空の輸送路を完全に断たれ、武器や弾薬はおろか、食料や医薬品の補給もなかった」と当時の状況を振り返った。
その上で、宮古に展開した陸海軍将兵の戦死者2569人の90%近くは栄養失調とマラリアで命を落としたとみなされている史実を語り、民間でも「軍隊と同じような犠牲者が出たと考えられる」とまとめた。
仲宗根さんは、「戦争とは戦場だけが大変ということじゃないんだ。みんなが命懸けだった」と訴え、戦史を語り継いでいくことの重要性を指摘。あの悲惨な戦争を、それぞれの地域や職場で語り、広めていく雰囲気づくりを求めた。