敵機を友軍機と見間違う/「十十空襲」生々しく
部隊の将校記す「宮古島駐屯記」/親泊さんが30年前に入手、保管
太平洋戦争(大東亜戦争)後期の1944(昭和19)年10月10日、南西諸島の広い範囲でアメリカ海軍機動部隊が行った大規模な空襲が「十十空襲」だ。当時の宮古島の様子を、駐屯していた日本軍の将校が文字で書き綴っていた。十十空襲から71年。その手記(コピー)を市民が保管していた。手記には敵機グラマン戦闘機を「友軍機」と見間違い、防空警報が慌ただしく発令される中を武装に身を固めた兵隊が各所定の部署で敵機の行動を監視していたことなどが生々しく綴られている。
手記を入手、保管していたのは平良に住む親泊宗二さん(74)。高校教諭だった30年前、教え子の家庭訪問した家でたまたま見つけ、手記の原本をコピーしてもらったという。
手記を書いたのは、当時城辺山田部落に駐屯していた六二四部隊の宇野常彦中尉(埼玉県出身)で、手記が見つかった家は当時、日本軍に徴用されていた。復員した宇野さんが、宮古島の回想としてまとめた上で、この家の主に贈ったらしい。
手記は1941(昭和16)年7月の応召から、46(昭和21)年復員までの5年間を綴った「平良町宮古島駐屯記」というタイトルで、十十空襲については「南西初空襲」との題名で記してある。
それによると、宇野中尉は「陣地巡視のため、朝食を済ませ、北方台地の松林の中腹にある第三小隊兵舎に富塚中尉を訪ねた」
「しばらく雑談していると〇七三〇分(午前7時30分)六二高地の松林の上空遙かに軽い爆音が聞こえてきた」
宇野中尉は、毎日数十機の友軍機が島の上空を通過し南方へ飛び去っていくことから、「友軍機」と思い「別段気にもとめずにいた」
ところが「爆音は次第に近づき、遂に黒い機影が四つ、松林の上空に現れたとみるや、中飛行場目指して矢のように急降下していく。それと同時に豆を炒るような激しい機銃弾の音、蒙々(もうもう)と立ち昇る爆煙、友軍機と思っていたのはまさしく敵機であった」と綴っている。
敵機を「黒いずんぐりした機体に白い星を描いたグラマン戦闘機20機」と断定し、「主として飛行場、平良港の船舶を目標に猛烈な銃爆撃を浴びせ、南東方面に脱出した」
「初めての空襲と防護施設不充分のため」、陸軍中、海軍の両飛行場や民家、平良港停泊中の船舶が「相当の被害を受けた」と当時の様子を記している。
手記はガリ版刷り。「あとがき」で79(昭和54)年1月20日印刷とある。
親泊さんは当時、台湾疎開中で、十十空襲は体験していない。「分厚い手記で、読み進めていくと後半部分に宮古島での十十空襲のことが詳しく書かれていた。当時の様子は、住民の証言や資料などである程度知っていたが、将校が当時の様子を書いた手記はこれまで見たことがなかった」と指摘。「戦後70年が経ち、戦争の記憶が段々と薄れる中、宮古島であった十十空襲を記した手記は貴重な資料と思う」と話した。
親泊さんによると、手記を書いた宇野さんは亡くなっているが、長男が埼玉県に住んでいるという。
日本側の記録によると、宮古島では午前と午後に1回ずつ各16機による空襲があり、陸軍機や陸軍徴用輸送船が撃沈、民家13軒半焼などの被害が出た。